「無理せず繋がる」子どもも私もwell-beingな地域社会に必要なこととは?


「ただの一市民でしかない私」に何ができる?

虐待や貧困、不登校など、子どもたちを取り巻く様々な社会課題があります。

そんな中で、こういった市民の声も聞こえてきます。
「子どもたちに何かしたいけど、自分に何ができるかわからない」
「子どもたちに関わるほど、今の自分の接し方は正しかったのかな」
「自分ができる範囲を越えた子どもたちの姿も見えたけど、どうしたらいいか」

関わるためにどうしたらいいかと悩む声、すでに子どもに関わっているけれど、行き場のない葛藤に戸惑う声。そして、もっと何かをしたい、しなければ、とは思うものの、そこまで時間をさけないことや専門性を持っていないことが少しもどかしくなるという声。

専門性を持たない私たち市民にできることはないのでしょうか。


「支援」ではなく「関わり」というあり方

私たち認定NPO法人PIECESでは、市民だからこそできることがあると考えています。

専門家だからこそ、出会える子どもたちがいたり、できる支援があることは事実です。ですが、その一方で専門家だからこそ制限があったり、「専門家」として子どもたちからも見られてしまうことで関係性に制限ができるということがあります。

市民であるからこそできること。それは話をしたり話を聞いてもらったり、一緒に遊んだり、何もしない時間を一緒に過ごすといった関わりです。そんな日常を過ごす関係性の中にほっとできる安心感や、頼り頼られるという信頼感を積み重ねていく。時間や体験を一緒に共有する「関係性」から、子どもたちの中に「心の溜め」や「誰かを信頼する気持ち」が生まれてきます。

優しい間とは
こどもたちと私たちの中で生まれる関係性を、私たちは「間(ま)」と呼んでいます。場や関係性といった言葉ではなく、「間(ま)」という言葉を使っているのは、そこにいる人たち同士で、お互いに自分と相手のことを考えながら心地よさを紡いだ先に生まれるものだと考えているからです。

子どもたちの日常に関わる。それが、私たち一人ひとりの市民ができることです。ここで、ある方が子どもの頃に体験した事例を紹介します。

子どもの頃、Aさんは親と喧嘩しました。そんな時に向かいの家のおばあちゃんは、何も言わずに、家に入れてくれて、お茶やお菓子を共にしてくれたそうです。他にも、ただただ、愛おしいと頭をよくなでてくれたおじいちゃんもいたりして、その時間や経験を経てAさんは自分を好きになることができたそうです。

「助けてをいつもなにもいわずに受け止めてくれた。温かい手とおいしいお茶に癒されていた。どうしたの?なにがあったの?と聞くこともなく、ただただ寄り添ってくれることで、あー自分のままでこのままがいいんだと安心できたのだと思います。」(Aさんより)

子どもたちが生きるのは、私たちと同じ地域です。その地域に住む私たちが子どもたちに関わっていくことで、子どもたちは心にケガをしたとしても、癒していくことができます。



私たち自身も自分らしく、心地よい関わりを探求する

Aさんの向かいの家のおばあちゃんのお話からは、寄り添うという関わりの他にも、「おばあちゃんが無理なくできることをした」ということもわかります。

子どもに何かしようと思うと、毎日開いている居場所をつくろうと考える人もいると思います。ですが、実際にそんな居場所をつくろうと思うと、自分の生活や費用など様々なハードルがあります。そのハードルは、どんなに想いが強くても、しんどさに繋がっていくこともあります。

向かいの家のおばあちゃんは、おばあちゃんができることをしていました。
他にも、毎日挨拶をして顔見知りになってみたり、犬の散歩で声をかけてみたり、家の前に椅子を置いてみたり。ピアノ教室など習い事をしている場所ではフリースペースを作るということもできるかもしれません。少しずつ、まずは自分ができる範囲のことから、関係性を繋ぐきっかけを散りばめてみる。そして、何かあった時には地域に話せる人がいるという状態を作ることが、大切なのだと私たちは思います。

関係性の糸をゆるく垂らしておく。*1
最初からすごく仲の良い関係性を作ろうとするのではなく、ゆるい顔見知りのような関係性をまずはたくさん作っていくことが、子どもにとっても、私たち自身にとっても、そして地域社会にとっても必要なことになってくるのではないでしょうか。

*1:関係性の糸をゆるく垂らしておく。
CforCの講師である、NPO法人ハンズオン埼玉理事であり、コミュニティワーカーの西川正さんの言葉です。(レポートはこちら

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「大人」と「子ども」が共に育む、風景としての子どもの遊び場づくり。

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市民のまなざしを持った子どもに寄り添う存在に