CforCを経て、僕は子どもたちに関わることを辞めた。-それでもCforCの意義を、心から信じている訳-

この記事は、CforCの修了生がプログラムを終えて、変化や感想について書いた文章です。


ひとつ、またひとつ、思い込みがほぐれていく日々

後にも先にも、ここまで心を開いて想いを共感し合える空間は、CforCを置いて他になかったように思います。
背景もそこにいる理由も異なる面々が、それぞれの願い、葛藤、苦しさを差し出し合う。
それを互いが受け取り、それぞれの目線に立って、それでいて個々に異なる切り口から、あらゆる可能性を提示し合う。
弱みを見せること。わからないことをわからないと言うこと。結論の出ない話にどっぷりと浸かること。

社会の構成員として許されないと信じ込んでいた振る舞いが、ここでは最も創造的な実践に変わり、それがとても新鮮で、そして暖かかったことを記憶しています。

背景にあったのは、加害者としての意識

CforCに応募するきっかけとなったのは、僕自身が幼少期に感じていた家庭や学校での生きづらさと、その苦しさをより弱い存在に転嫁してしまった罪の意識でした。
誰かを傷つけてしまうことの苦しさを、経験してほしくない。
すでに傷つけてしまった人には、自分なりに寄り添いたい。
「プリズンサークル」という映画を見て、連鎖を断ち切る希望を強く抱いていたこともあり、"人を苦しめる人"を生み出さないために何かできることはないか、そう思って活動を始めました。

そんな背景から、活動の中では自然と「誰かを傷つけてしまっている子ども」に目が行き、その子のやりきれなさを解消したいと思い、積極的に寄り添うようにしていました。
時にその攻撃性を受け止め、時に何もせずただ隣に佇み、その子の根底にある願いに耳を傾ける。
しかし結局のところ、一番心を通わせることができたのは、僕自身の楽しみたい気持ちに忠実に、その子と一緒に遊んだ時だったことを、よく覚えています。

「その子のため」を超えた先で、一人と一人で向き合えた時、自分のためは誰かのためにもなる。
それもCforCの活動の中で得た大きな学びです。

「なんで来たの〜?」

ある現場での初日、湧き上がる好奇心そのまま、まっすぐに僕に投げかけられた言葉です。
思えばこの時からずっと、この言葉は僕の頭の中でこだまし続けています。

「困っていると思ったから、助けにならないかと思って来たんだよ。」
そんなことはとても言えず、「一緒に遊びたいな、と思って。」となんとなく濁して答えました。
でも正直なところ、困っていてほしいと願っていたんだと思います。
核心を突かれたな、という感じです。

僕が出会った子どもたちは皆、確かに様々に生きづらさを抱えていたように思います。
その生きづらさを和らげる遊び相手として、またやりきれなさの発散先として、そこに僕がいたことで、その瞬間その子どもたちが間違いなく輝いていた、と自信を持って言える瞬間も、何度か経験できました。

しかし、CforCを終えて2年余りの月日が流れた今、ようやく”不都合な真意”にも目を向けられるようになりました。
それは、「苦しさの中にある子どもたちの存在を拠り所に、なんとか支援者としての自分を成り立たせようともがいていたのではないか。」ということです。

見失った存在意義

支援者としてありたいと思った時、相手の中にどこか欠けている部分を探してしまっていたのではないか。
善意がいつの間にか相手の心に巣喰い、そこを自分の居場所として住み着いていてしまったのではないか。
そんな風に思います。
なぜそうなってしまったのか。
それは、僕自身が自分の中にある穴に蓋をしたまま、大人に”なりきって”しまっていたからだと気づきました。
辛かった過去を生かした活動をしたいと望んでいたのに、蓋を開けてみれば、僕はまだその穴の奥底に沈んでいた。
遥か後方に置いてきたはずの暗闇は、今もこの先も、自分の歩む道の上に大きな影を落としている。

これは、CforCの活動を振り返った時、最も苦しい気づきでした。
自分と子どもたち双方が生きやすい「私たちにとってのwell-being」を目指す視座が、根本から崩れ去ってしまったように感じました。

それらの問題を「共依存」や「アダルトチルドレン」という言葉で呼ぶことを知ったのは、最近になってのことです。

供養と涵養

このままその暗い道を歩み続けるしかないのか。
そう思っていた矢先、ある本を通して「社会は個人の意識や行動次第で再構築できる」という考え方に出会いました。
社会は”既製品”ではなく、今この瞬間も、一人一人で作り上げているもの。
だから、異なる社会を望むなら、自分の手元から新しい社会を作り上げていけばいい。
これは、CforCの根幹にある考え方とも大きくつながるものだったのだと、今更になって気がつきました。

僕はきっと、というか絶対、世の中のことも、現場の奥の奥で起きていることもまだまだ知らない。
社会の制度や保育・教育の歴史を少し覗いてみるだけでも、今僕の住んでいる世界が、こどもたちやその周りの人々にとってどれくらい”生きづらいものになるよう設計されているのか”が見えてきました。

そして同時に、自分自身がその社会を選んできたことも、その社会に支えてもらっていることも。
この社会の歪みを真正面から突き崩すべく活動をする人たちを、僕は心から尊敬しています。

でも僕にはきっと違うやり方でできることがあると信じています。
社会と同じく、自己像も今この瞬間から書き換えられるのなら、まずは苦しんでいたこれまでの自分に寄り添い、その上で、焦らずにじっくりとこれからの自分を育んでいきたい。

そのために今僕にできることは、とことん逃げて、生き延びること。
それは、あえて横文字を使えば、surrender(降参)ではなくretreat(修養)。
あらゆる外圧をいなしながら、大通りをそれた脇道に自分が生きやすいアジールをちょっとずつ作りあげていくこと。

そこが、他の誰かにとっても心地よい空間となり、社会の方向性を数ミリでも動かせたら。
そして、既存の社会と新しい社会、どちらの良さも認めて暮らしていくことができれば、きっとそこは生きやすい。

そんなことを考えています。

まずは二人から

CforCでの活動を終えた後、僕は仕事も、子どもたちに関わる活動も一切辞め、妻と二人で離島に移り住みました。
いつか子どもたちと関わる暮らしがしたい、という共通の目標を持っていた僕達でしたが、まずは自分達の暮らしに光を当て、二人で安心できる暮らしを形作ることから始めてみたいと思ったんです。

そのために、今あるものがなく、ないものがある環境で暮らす経験を積んでみよう。
そんなふうに考え、島への移住を決断しました。

そこで過ごした1年間で、僕達が成長できたのかは正直わかりません。
そもそも右肩上がりに何かが良くなっていく、というのは大方幻想なのではないか、とも思っています。
でも少なくとも、世界の見方は少しずつ変わってきたと思います。

島を出た今、僕達は新たに「アドレスホッパー」として、ありたい暮らしのヒントになりそうな場所や人を訪ね暮らす日々を過ごしています。
普遍の絶対解を求めるのではなく、日々最適解を作っていく生活。
その地平の先で自分達なりに子どもたちと関わる機会を待つことができたら、それはとても素敵なことだな、と思っています。

心を解きほぐしてくれるような安心感も、世界の見え方がガラリと変わるような自己覚知も、そしてこの活動なくしては到底覗くことのできない暗闇との邂逅も、CforCで得たすべての経験が今の自分の礎となっています。

CforCの掲げる市民性という言葉には、人間らしい関係性を取り戻すヒントが、たくさん秘められていると思います。
このプログラムに、多様な持ち味を持った方が参加され、それぞれに気づきを得て卒業されていくことを、陰ながら応援しています。

CforC2019修了生 大森玄己

Previous
Previous

人と人とのつながり~今だから感じるCforCの魅力~

Next
Next

ありのままで居られる場が、自分を優しく強くしてくれる